2023年7月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「告発の理由」ヨハネ8:3~11
こんなドラマがあった。殺人罪で投獄された兄の無実を証明するため、妹は有名弁護士に弁護を依頼しようとする。だが依頼人が貧乏のため、費用が払えないなら弁護はできないと断られてしまう。兄が獄中死したことで、妹は弁護士への復讐を始める。復讐は理不尽であり、この女の非常識は山ほどある。それをいちいち指摘してもはじまらない。これはあることに異常に執着するパラノイア、偏執という名の狂気なのだから。当然のことながらこの作品のモチーフも弁護士が正しいか、女が正しいか、その対比にあるわけではない。これは絶対的権力をもって君臨する司法制度に狂気をもって挑んだ無力な娘のドラマである。
律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、イエスに言った。「この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにせよと命じています。ところで、あなたは何と言われますか。彼らはイエスをためしてこう言ったのである。彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き…。
絶対的権力を持って君臨する律法を盾に諸刃の剣のような問いであった。もし律法に従えば、イエス自身が女を石で打つ最初の行為者とならねばならない。否定すれば、神の律法、司法制度を否定する異端者を自ら表明することとなる。これが彼らの理不尽な復讐だった。
問い続ける者らにイエスは言った。「罪のない者が石を投げよ」。予期しない言葉に彼らは押し黙り、その場を去った。ヨハネはこれを「年長者たちから始めて」と書いている。年長者が若者より罪に敏感だったのは、長い年月で重ねた罪を自覚したのだろう。彼らは傲慢だったが、イエスを前にして罪を自覚した。「そうか!あのお方は、どんな人でも救おうとするんだな」。確かキルケゴールの言葉だったと思う。「今度イエスが来るとき、あのお方は言うだろう『わたしが来たのは遊女や罪びとを救うためではない。律法学者やパリサイ人を救いに来た』」。説教者として告白すれば、こういう話の筋はメッセージの構成として馴染みにくい。教会の既成概念から飛び出したものになりかねない。たとえそうであっても、イエスは敢えてそれを慣行しようとしたのではあるまいか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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