2023年7月2日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「善きサマリヤ人」ルカ10:25~37
イエスは言われた。「あるユダヤ人が、エルサレムからエリコへの途中、山賊に行きあった。旅人の所持品を剥ぎ取り、身体を傷つけ、半殺しの目にあわせて棄て去った。折しも一人の司祭が通りかかったが、見て見ぬふりして離れ去った。次に礼拝を導くレビ人が通りかかり、やはりそのまま過ぎ去った。ところが次に来たサマリヤ人の旅人は、をあわれに思い、持参の葡萄酒を彼の傷口に注ぎ、一番近い宿屋で介抱した。「誰が山賊に行きあった者の隣人になったと思う」。「彼に憐れみをかけた人です」。「ではお前もそのように生きよ」。
心に響く語り口の構造は、たとえて言えば、薄い板のような物が何枚かあって、一枚一枚に穴が開けてある。穴は色々な所についていて、その穴に針を通していくと全部の板を貫いて完成品となる。一枚でも穴が合わないと針が通らなくなる。何気なく針が通してあるように見えるが、幾つもの条件をクリアーして筋が通してある。最後に通りかかるのが「サマリヤ人」であったのも穴の一つである。これを「ドルーズ人」や「ナバテヤ人」にすると途端に穴が合わなくなる。この話ではユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人との事情が話の筋になっている。イエスの教えの一貫性とも矛盾がない。「憎い者にも親切を示せ。仲間うちだけで愛し合っても恵みは乏しい。自分にして欲しいことを隣人にも示せ」。「隣人とは、向こう三軒両隣ではない。遠くで悩み、打ちひしがれてる家があるなら、その家こそ私にとって一番の隣人となる。傷ついた人がいて、サマリヤ人は敵対関係のユダヤ人を己の隣人として選んだ。国籍もイデオロギーも国境線もサマリヤ人の視界からは消えていた。ただ助けを必要とする人の中に私にとっての隣人を見た。「自分を愛するように自分の隣人を愛せよ」。私は、絶望的過失を犯した自己を許し、前進しようとするだろう。間違った自分をかばうだろう。人は己という十字架を一生負って労わっていく。人は己に無関心ではいられない。こうしてもらいたいと願望もする。己に耐え、己を励まし、己を受け入れる。その尺度をいつも隣人に向かって使えとあのお方は仰った。
これから婚約式を行いますが、これから二人は、良きサマリヤ人になり、傷つき倒れる旅人にもなるだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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