2023年6月4日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「アナニヤとサッピラ」使徒5:4,11 4:34~35
エルサレム教会の発足。何事も、運営管理には金がかかるもの。それぞれ私物を売って代金を持ちよる。バルナバが全ての私財を携え、初代教会に加わったのもこの頃である。
不心得者がいなかったわけではない。アナニヤ・サッピラ夫妻である。「これが全部です」とペテロの足下に置く。「なぜ嘘を…。その金は全部あなたのものだし、そのつもりなら全て自分のために使えたではないか。あなたは主の霊を欺いたのだ」。
「主の霊」を欺き通せる可能性。ばれそうな計画は実行しにくい。二人にとって、ばれない可能性があると思えば(やるだけやってみよう)となるのではないか。きっとそうだ。だからこそ納得できるのだ。“どちら様もこういう人生にはくれぐれもご用心を”
大人の知恵として考えるなら、間違った道に入り込まない判断も大切だが、間違ったと気づいて道を正す分別も肝要だ。「本当に全部かね?」欺きの常套文句が「知らないな」である。いくら白を切っても詮ないこともある。二人の「知らない」は、知りたくもないから「知らない」の中に閉じ込めてしまった。誰かのために、金を出すことがどうしようもないほど辛いことだろうか?「私にだって生活が…」それを云々するほどのことではあるまい。
二人はバルナバに嫉妬や劣等感を感じたかもしれない。人として生まれた以上、栄光の生涯を送りたい。才能がないわけではない。胸に手を当て考える。人に罵られ、軽蔑されて生きるなんて嫌だ。栄光の生涯を歩むため、過酷で厳しいドロドロ、主の霊を欺く道を思いつく。それが二人の生きる知恵だったのだろうか。この知恵が二人の心をくまなく満たした。欺いても構わない。二人には栄光の人生が必要だったのかもしれない。初代教会で集めた金は、分け与えるためであった。どこかで酷い目に会う奴が出ても「オレ関係ねえんだよな」。この二人の意識が、誰かの生きるか死ぬかを左右する不運につながることもあるだろう。初代教会の働きの一つに、支援物資を配る配給の活動があった。まあ、下っ端の仕事である。配給の活動にささやかな幸福を感じて生きている者と、命がけの偽りを慣行しても満足出来ない者の対比に何を見いだせばよいのだろうか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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