2023年4月7日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「失望はない」ローマ10:9-13
イエスは、律法を行うことで義と認められようとするイスラエルの間違いを正すため旧約聖書を引用して教えた。『「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」とはどういう意味か、行って学びなさい。』イエスは、パリサイ人、律法学者が教える律法には、神に対する知識がないと反対された。イエスのたとえ話にパリサイ人と取税人が宮で祈った話がある。自分が義人であることを感謝して祈るパリサイ人ではなく、『神さま、罪人の私をあわれんでください。』と胸を打ち叩いて罪を悔いる取税人が、義と認められて帰った。旧約の時代から、神が人に求めることは、神の律法を守ることができない自身の罪深さを知り、神のあわれみにすがることだ。律法が与えられる以前に、アブラハムは神を信頼することで義とされた。ダビデの罪を悔いる砕かれた心は神に受け入れられた。旧約の神のみ教えと新約でのイエスの憐れみの教えは矛盾しない。神は、罪を犯さずにはいられない民を、決して諦めることなく指導し、愛し続ける神だ。父なる神の愛に応答する子の心を求められる。新約の時代、神は、御自身の究極の憐れみをイエスによる救いを通して実現された。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」パウロはイザヤ書を引用している。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。」(イザヤ28:16)試みを経た石と表現されているこの試みとは、ひとり子イエスが万人の罪を背負い、呪われた者となって死に、黄泉にまで降られたことだ。イエスの流された血によって万人の罪が赦された。神と全く一つであられたイエスが、神と断絶しなければならないという体験は、ひとり子イエスにしかわからない御苦しみだ。十字架に架けられる前夜、イエスはゲッセマネの園でこれから受ける苦難のために苦しみ、もだえ、祈られた。イエスは、御自身に与えられた使命を理解しておられた。よみがえることもご存知だった。しかし、イエスのみ苦しみは激しかった。神から与えられた使命を果たすために、イエスは十字架に向かって行かれた。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」十字架の上で叫ばれたおことばには、イエスの悲痛なおこころが表わされている。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」神は罪のないイエスを死からよみがえらせた。よみがえられたイエスは今、私たちの心の中におられ、聖書を通し、賛美を通し、祈りの通し、御臨在を現わされる。イエスはよみがえられ、今、私たちとともにある。イエスに信頼する者には失望はない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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