2023年4月17日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「信仰の儀」ローマ10:4~8
パウロが引用している申命記は預言者モーセがイスラエルの民に語ったことばだ。(申命記30:11~14)【11「まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。12これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取ってきて、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい・・14まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」】申命記30章では、イスラエルが神に背いてさばきを受け、後に悔い改めることが預言されている。(申命記30:~10)【1私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り…6あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。】注目すべきことは、「みことばを行うことができる。」というモーセのことばの前に、イスラエルが律法を犯し、神からさばきを受け「我に返る」というプロセスがあることだ。罪を犯し、我に返る者といえば、放蕩息子のたとえ話がある。我に返った放蕩息子は悟った、『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』ダビデは、神に祈った。(詩篇51:4)「私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。…」人が罪を犯すとき、それは、主権者である神に対する罪だ。しかし、私たちには帰る場所がある。放蕩息子の帰りを父は待ち続けていた。ぼろぼろに傷ついた我が子を遠くから見つけると駆けつけて抱きしめ口づけをして我が子として迎え入れた。神は、私たちが立ち返ることを待ちわびる。このような悔い改めがイスラエルの内になされる。申命記のイスラエルは、神の律法を行うことが出来ず、さばきを受けて、我に返り神の深いあわれみを知る。彼らは、もう、律法を行うことによって自分の義を立てることは出来ないと知っている。神の麗しい教えを行うためには、神の御力にすがる以外にないことを知っている。パウロは、預言者モーセが語ったことばは、信仰の義を表わしていると述べる。「みことばは、あなたの近くにある。」この「みことば」は、パウロが述べ伝えるイエスによる罪からの救い。この救いはあなたのすぐ近くにある。私たちは天を仰ぎ、神のみおしえにとても到達することができないと嘆く必要はない。天には、御自身の血を携えて天に上られたイエスがおられる。イエスの血は私たちに罪の赦しを宣言する。神のみおしえからほど遠い自分の醜さに絶望し、よみの暗黒に囚われる必要もない。イエスは私たちのために死に、よみに下ってくださった。イエスの光は、私たちを包み闇を照らす。イエスの救いを喜び、神のあわれみに感謝と賛美を献げる者は、「わたしに従いなさい。」と差し伸べられたイエスの手をとり、イエスとともに生きる。ただイエスのみ力に信頼して。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です