2023年4月2日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」イザヤ6:9~10
「神の国とは、良い種を畑に蒔いた人に似ている。眠っている夜の間に敵が来た。蒔かれた良い麦の間に毒麦の種を蒔き、こっそり立ち去った。さて時が来て使用人は驚いた。「ご主人さま。なんとしたことか。毒麦が混じって芽を出しています。主人はあわてず答えて言った」。「それは敵がこっそりやったことだ」。「主よ。毒麦のあの話、いったいどういう意味でしょう」。「お前たちはこうして素直に、ひたむきに、聞きたい、見たいと願い、わたしに従い、わたしに信とまことを寄せている。だから神の国の奥義が、一段、また一段と深く、大きくお前たちには示されてゆく。しかし、お前たちとは違い、聞こう見ようと願わぬ者たちもいるのだ。それのみか、聞くまい、見まいと、前もって決めてしまっている人々さえある。だから、あからさまに語ってもむだであろう。いや、あからさまに語れば語るだけ、耳をふさぐに懸命となろう。預言者イザヤも言ったではないか。『聞いて悟らず、見て認めず。こころ鈍く、耳はふさがれ、目は盲となる。いやされることを拒み、こころ新たになることを拒否し…』と言ったではないか。」
「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」イザヤ6:9~10)。
毒麦のたとえは、すべての人を悩ませる悪の問題に触れている。悪や苦しみは必然である。「悪」とは何か?「蒔かれた悪」とは、しつこいほどイエスが指摘する過失と対極にある「故意の拒否」。即ち、自由に選べる能力を持ちつつ、善きものを選ぼうとはしない選択にほかならない。回心、悔い改めとは、まさに善きものを選び取ることであり、故意の拒否を改めることである。悪の種を蒔く、暗闇の力は確かに存在する。それは善を蒔く力に対抗して現れる。そもそも、悪の最初の芽生えも〝アダムとエバ〟神のことばを知りつつ、聞きつつ、故意に退けたことに源を置く。
聞く耳を持つ者は聞け。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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