2023年03月26日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「神の知識、神の義」 ローマ9:6~13
パウロはユダヤ人の救いを祈る。(エゼキエル22:30)「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」。パウロはこの破れ口に立ち、心をそそぎ出してとりなした。今も神は、私たちの国から正義とあわれみが失われず、滅びないように、また人々が救われるようにとりなす者を探しておられる。パウロはイスラエルが神に対して熱心であることを認める。パウロ自身も以前は熱心なユダヤ教徒だった。そして、ユダヤ人の血筋の誇りも、律法に対する熱心も、キリストに出会ったことにより全てが損失であると考えるに至った。パウロの考えが180度変わったのは、イスラエルが持つ神に対する熱心が、知識に基づくものではないため、誤っていることに気がついたからだ。聖書における「知識」ということばは、おもに神に関する人間の知識を指す。パウロは信徒を迫害しようと息巻いてダマスコへいく途中、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という復活のイエスの御声を聞いた。パウロは真の救い主を体験的に知った。神は聖書を通してご自身を啓示される。もし、人が神を人格的に知ることが出来ないのならキリスト教は今に至るまで存在しなかった。イエスは生涯を通して神を説き明かされた。イエスは、罪を犯さずにはいられない自分の弱さを認める心の貧しい者を導かれた。神のあわれみの深さと愛と正しさを人々にしめされた。律法を守ることによって、自分を義人とすることは神の知識に基づくことではない。律法を守り自分を義とするイスラエルに対し、イエスは山上の説教で教えた。(詳訳聖書マタイ5:3)「霊において貧しい者[自分をつまらない者と評価する謙遜な人]は祝福されている。[幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている。なぜなら、天の国はその人たちのものだからである。」このおことばから説教は始まる。この説教で、イエスは、心の中に沸き起こる怒り、憎しみ、情欲、名誉欲、許さないこと、金銭に貪欲であることも神に審かれる対象であることを教える。自身を犠牲にしてもあわれみ深くあることを教え、人を審くことを禁じる。モーセの律法よりもはるかにハードルが高い教えを神の御心としてイスラエルの人々に提示された。律法は人の罪深さを教える教育係だ。もし、人が欲望のままに放縦に生きていたら何が罪なのかわからない。罪がわからなければ神の愛も、罪人を義としてくださる神の深いあわれみも決して知り得ない。神とともに生きようとする敬虔なものだけが神を知る知識を得、神によって与えられる義に心休めることができる。山上の説教の締めくくりに、イエスは、家を建てた賢い人と愚かな人のたとえを用いられた。イエスのことばを聞いて、それを行う者は、自分の弱さ、醜さを認めて神にすがり従いゆく。心の貧しい者は幸いだ。その人のありのままを受け止めて深くあわれみ、赦し、愛して「生きよ」と力づけてくださるイエスという強固な岩がその人を支える。ゆえに、どのような試練にも、悪魔の攻撃にも倒れることはない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です