2023年3月19日 基督聖協団目黒教会牧師 都丸道宣
主題 「自らの過ちを見つめて」創世記20章8-18節
アビメレクという王がアブラハムの前に現れました。彼は純粋実直で、神の言葉を真摯に受け止めました。もしかしたらアブラハム以上?とも思える素直さです。しばしばクリスチャンは自分たちは神に近く、この世に生きる人たちよりも聖い、と勘違いしてしまう人もいますが、世で生きる人の中にも、クリスチャンのように生き、神の存在を認めるや否や瞬間的に恐れをいだき、敬意を表す、平安の子というのがいます。聖さが人にとどまるのは難しいのです。人の性質とはあまりにかけ離れているので、風のように、あるときは人にとどまり、またあるときは通り過ぎていきます。
アビメレクは自分が恐るべき罪に陥るかも知れない?!と気付くや否や民を集めました。重臣たちを集め、サラを返し、アブラハムの祈りによっていのちを得られること、またそうでなければ滅びると語り、贈り物まで用意させました。いのちを得る、とはそれほどのことなのです。王が悔い改め、国が、民がまるごと変わろうとするほどに、崇高で希少な出来事なのです。それを理解し、それに向かって、そのための行動を進めました。
しかし、神と共に生きているはずのアブラハムは言い訳と保身に走ります。妻を妹として王の前に出たのは殺されるかもしれない恐れがあったこと。事実サラは妹で、それは家族構成がこうなので…、すらすら出てきます。私たちの目には弱々しく、あわれに映ります。ただ、このように失敗をはっきり相手に語れたのはアブラハムにとって貴重な体験でした。アビメレクあってのことなのです。これまで負ってきた弱さと罪の告白でした。そして、この告白はこの王によって不問とされます。
アビメレクは家畜と奴隷をアブラハムに用意しました。サラを返し、好きな土地を与えよう、とまで言います。赦しと恵みが同時に与えられました。アブラハムは惨めにたたずんでいました。恵みをうけるには相応しくない、と思いながら聞いていたのではないでしょうか。しかしその上、サラの潔白の証明までもが用意されました。アブラハムは自らの過ちを見つめ、神を深く感じました。
祈りは神に用いられました。祭司としての役目をつとめます。王国から不妊が取り除かれ、いのちが始まります。アブラハムの家庭にもいのちの準備が整ってきました。長く暗いトンネルを抜けたのです。その向こうにイサク誕生が見えて来ました。
背後には闇の力が働いていました。救いをもたらす神の民を攻撃するのはサタンです。しかし神はアブラハムの失敗を用いて、闇を払いました。
このことから何が言えるでしょう?私たちは失敗してもいいと神は言われるのです。弱くはかなく、心細いこともあるでしょうが、それでいいのです。そこに神は力強く働かれます。それをただ信じて、待っていればいいのです。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です