2023年02月19日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「信じたい」ヨハネ9:21~23
「途中で生まれつきの盲人に会われた」とヨハネは筆を起こす。あのお方は地に唾をして泥をこね、男のまぶたに塗って言った。「シロアムの池に行って洗え。」〝イエスに癒された〟と有頂天で吹聴し人心を惑わし、イエス崇拝の芽を撒きそうな男が現れたことにパリサイ人らは危険を感じた。この不都合は困りものであった。「そうか。その人がお前を癒したのか、それでお前はその人を何だと思っているのかね。パリサイ人に男は媚びることを知らなかったし、乞食生活に慣れた男に失うものはなにもなかった。だから男はただならぬ空気におそれる気配もなく即座に言った。「偉いお方、待ち望んだメシヤです」。まさにこの告白こそ、パリサイ人には困りものであった。「お前はその人を何だと思っているのかね」。この問いの集大成をピリホ・カイザリヤでの投げかけに見ることができる。「あなたがたはわたしを誰だと言うか?」この問いかけこそイエスを信ずる者と教会に対する〝永遠の問いかけ〟である。教会がまことのイエスの教会であり、生きた教会であるとき、そこには常にひとつの告白が貫かれていた。〝イエスは主なり!〟そして教会は、この告白によって、〝他のなにものによってでもなく〟真に生きることができた。この告白へと導くものは〝勇気〟である。
〝お前は人の子を信ずるか〟。「教会成長」などという言葉をあのお方は仰らなかった。「信徒訓練」とも言わなかった。イエスは「赦し」を語り、パウロは「旅人を語った」。「そのお方を信じたいと垢にまみれた男は言った。誰も何も信じられない人間不信の危機に我々は追いやられている。「わたしはわけるために世に来た。見えない者と見える者、信ずる者と信じない者に…見えなかった者は見え、見えていた者は見えなくなる。「我々も盲目かと、パリサイ人のひとりが言った。「見えると言い張るがゆえに、お前たちは罪のうちにとどまる」

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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