2023年02月12日基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「あわれみの神」ローマ9:14~29
「あわれみ」は神の本質に関わる性質だ。イスラエルと神が結ばれた契約関係のなかに神のあわれみを見る。「彼らの心は神に堅く立たず 神の契約に忠実でなかった。しかし 神はあわれみ深く 彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。神は心に留めておられた。彼らが肉にすぎないことを。吹けば戻らない風であることを」(詩篇78:37~39)。神の子イエスは生涯を通して父のあわれみと忍耐を現わしたが、パリサイ人には理解出来なかった。イエスはパリサイ人にホセア6:6を学べと無知を指摘された。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」神が喜ばれる真実の愛とはどのようなものか。律法は律法を守ることのできない人間の真の姿を照らし出す。自分の醜さを知る者は神のあわれみにすがり、豊かに赦してくださる真実なる神を愛する。神はこの愛を人に求める。イザヤ57:15「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」また神を知ることについて告げる。エレミヤ22:15~16「あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたりのんだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。」神のあわれみを知る者は、自身を欲望に委ねず神に従い歩むことに喜びを見いだす。神はこのような者をご自身の栄光をあらわす有用な器として用いられる。しかし自分を義人とするパリサイ人は神の豊かなあわれみを知ることも神を愛することもない。イエスはパリサイ人の罪を厳しく責め、さばきを宣告される。彼らは頑なにされることが定められていたのだろうか。神は進んで彼らの心を頑なにしたのだろうか。マタイ23:37『エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。私は何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのにおまえたちはそれを望まなかった。』神の内に沸き返るあわれみは滅ぶべき怒りの器の上にそそがれている。イエスは十字架の上でとりなす。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」神はすべての人が悔い改めに進むことを望む。しかし、人が悪に心を委ねるならば神はそれをゆるされる。心を頑なにするか否かは人間の責任だ。イエスは、私たちの心の外に立ち戸を叩く。イエスの声を聞き戸を開けるならイエスはその人のところに入り、親しい友となられる。滅ぶべき怒りの器に対する神の忍耐とあわれみはイスラエルから、万人へ臨んだ。心を頑なにしたイスラエルは「祝福あれ、主の御名によって来られる方に!」とイエスを拝すると約束されている。イエスの光は闇を照らし人々を救い、また、キリスト者を神にとって有用な器へと導く。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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