2023年01月29日基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「人間の域にとどまらせるもの」ルカ10:27
「グローバル・スタンダード」。耳にする言葉だ。〝世界基準〟の意味で、特別な風習ややり方を許さないとの強力な欧米の波が押し寄せて来た。「日本は日本らしくやりますから…」。そんな発想は許されなくなった。欧米先進諸国の基準を押し付けられ、「強い奴が勝つ。弱い奴は強い奴に食われてしまう。それは仕方ないことだ」。これが世界基準である。グローバル・スタンダードとは、一種のダーウィニズムであり、弱い者、生存に適さない者は淘汰され、順応できるものだけが生き残る。つまり、この社会は修羅の巷、弱肉強食のジャングルである。それが世界基準、世界のものさしである。いま私たちにはそのものさしが当てられている。企業でも銀行でも、強い者だけが残る社会にしよう、これが市場原理だ。なぜこのものさしで、今日まで、人間社会が正常に維持できたのか。その理由として経済学者アダム・スミスは、神の見えざる手(イン・ビズブル・ハンド)が控えているからだと言っている。欧米諸国の中には「教会税」があり、キリスト教の神のために税金を支払っている。それくらい聖書や教会が社会の中に深く根をおろしている。そのようなコミニティが控えている社会では〝強い者が勝つ、弱い奴は脱落する〟の〝ものさし〟で生きていながら、心のどこかで、神の掟や、神の教え、キリストの愛とか、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(ルカ10:27)とか、こうしたことを心のどこかで考えざるを得ない部分がある。これが欧米のキリスト教社会であり、この見えざる神の手が、競争社会、金儲け社会の後ろ盾として控えているので、この競争社会は、猛獣の世界ではなく、人間の世界の域に踏みとどまれる。これが資本主義の要である。プロテスタンティズムの精神的バックボーンのひとつは「多くを稼げ」。お金儲けはどんどんしなさい。それから「多くを蓄えよ」。貯めたなら、「多くを施せ」。これが聖書的経済観だ。「稼げ、貯めよ、施せ」。この三つが三位一体のように機能する限り、〝強い者が勝つ〟との世界基準の歯止めとなる。隣人を愛せよ、の「施せ」だけを外して、「多くを稼げ、多くを貯めよ」この二つだけの社会に、グローバル・スタンダードを持ち込んだら、この日本社会は物凄いことになるだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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