2022年10月9日 基督聖協団目黒教会 牧師 都丸道宣
主題 「現れた−パート1−」創世記18章1-15節
今回の箇所で神が来られたのはサラに言葉をかけるためでした。イサク誕生に向かう信仰の備えのため神が直接現れたのです。
マムレというアブラハムの居住地に旅人の姿で主は来られました。三人の旅人はどこか不思議な立たずまいで、不意にアブラハムの視界に入ってきました。アブラハムは突然の訪問に関わらず、最大の歓迎をしています。旅人の歓待は荒野の民の慣習と言うのですが、それにしてもへりくだりもおもてなしもこれでもか、と言えるほどです。「もしもよろしければ、素通りせず、お寄りください!」人はそれぞれ旅人のようなものです。もともと他人であったそれぞれが、些細なきっかけで触れ合い、時に深い関係に導かれていきます。
荷物が重くて困っている人、立ち止まって左右を見回し、今いる場所がどこか確かめようとしている人。困難や困惑が人と人を結びつけるきっかけとして、しばしば特別に作用してきます。この土地に寄留しているアブラハムはそのような旅人の心(細さ)がよく分かっていました。そのため、備えられた場所での出来得る限りの歓迎の心備えがあったのです。
そこで旅人の口から発せられたのは、「サラはどこにいるのか」でした。主が「どこにいるのか」問われるときは、場所を聞いているのではありません。その心に何があるのか、です。神はその心におられるか、です。彼らは次に「来年の今ごろ、サラに男の子が産まれる」と宣言されると、サラは笑ってしまいます。老いた夫婦にそれはありえませーん。その心に主への信頼が無かったからです。「どうしてサラは笑うのか」、アブラハムに主は問われました。夫婦は一つ。共同体には一つの信仰。アブラハムと信仰を同じにしていないとはどういうわけか。
夫婦に与えられたこの問いは、信仰の課題を共同体に課したことを示します。サラだけの課題でもアブラハムだけのものでもない。共同体は、誰かの課題を自分の負うものとして受け止め、信仰でクリアするとき強くなるのです。関係が密になり、信頼が増して、一つになっていくのです。
教会が痛むとき、頭であるキリストは苦しみます。教会の一人が悩み、悲しみの中にあるとき、自分のものとして痛まないなら共同体が機能していないと気付かなければなりません。
「子宮」と「あわれみ」とは語源が同じです。柔らかく、温かく、ノンストレスなサラの胎が備えられるのに、アブラハムの協力は欠かせません。互いに愛し合い、あわれみ合い、弱さを互いに負い、夫婦は一つになっていきます。共同体は一つになり力を発揮します。人には難しいが主には何でも出来る。そう信頼する者にいのちを与えてくださる主を誉めたたえたいと願います。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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