2022年08月14日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「御霊のとりなし」 ローマ8:26~30
自分以外の人のために救いや守りを祈ることは、聖霊と心を一つにされて祈るものではないだろうか。アブラハムは甥のロトの救いのためにとりなした。ロトが住むソドムとゴモラは、そこに住む人々の激しい堕落による罪のため、滅亡が定められた。アブラハムは神に町の救いを願う。「50人の正しい人がいるかもしれません。その正しい者を悪者とともに滅ぼされるのですか?」「50人の正しい者がいるならその正しい者たちのために町のすべてを赦そう」。「5人不足して45人かもしれません」。アブラハムは正しい人の数を40、30、20、10人と減らしていく。その必死の願いに「滅ぼしはしない。その10人のゆえに」と約束した。彼の心の中にロトの救いを求めるうめきがあったからだろう。町は滅ぼされたが哀れみの神は、町を出るのをためらうロトの手を引き、彼を救い出された。神はとりなしの祈りを求めておられる。モーセはイスラエルをエジプトからカナンの地へ導く指導者として任命された。カナンの地に入るまでイスラエルの民は幾度も不信仰に覆われ、つぶやき、怒り、不平を鳴らし、罪を犯して神とモーセに逆らった。神はイスラエルを滅ぼそうとされたが、モーセが神とイスラエルの間に立ってとりなした。神はモーセの訴えを聞き入れイスラエルへの怒りを収めて裁きを止められた。審かれるイスラエルを目前にして、モーセの内に湧き上がるうめきが神の御前にとりなしの祈りとなった。「主は、とりなす者がいないことに唖然とされた」(イザヤ59:16)。神はとりなす者を求めておられる。神の御心に沿って祈るとりなしは聖霊によってなされるものだ。信じる者たちが受ける苦難をご存知であったイエスは、残される弟子たちのことを思い彼らを悪い者から守ってくださるようにと父なる神に懇願して祈られた。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしにくださったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」(ヨハネ17:11)。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(17:20)。御子の祈りが今も私たちの上にある。弱さを抱えた信徒たちと教会はイエスと聖霊の祈りによって支えられて一致と拡大を続ける。聖霊のとりなしの目的とは、神を愛する人たちがイエスに似た者となることだ。神に召された者たちが遭遇する全てのことが用いられ、有益なものと変えられ、辛い出来事を通して神から霊的な恵みや悟りを頂く。私は神学生時代、神の存在がわからなくなる苦しい体験をした。その体験を通しイエスの足元にひざまずく自分があるべき立ち位置を知ることができた。聖霊はことばにならないうめきをもって私たちのためにとりなしておられる。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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