2022年6月26日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「信じる人は強い」ガラテヤ4:21~24, 28~31
「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。創世記がこの言葉にどんな意味を含ませたかは明確ではないが、新約のパウロにより特別な意味を持つようになった。信じるだけで愛され、救われる。「義認」である。パウロは創世記15章を熟読しながら、キリストについて考えている。約束の子イサクが生まれ、女奴隷ハガルとイシュマエルの母子の立場は微妙になった。正妻サラには大義名分が味方している。「あの人たちを追い出して!」。砂漠で水と食料が尽き、母子は死を覚悟した。しかし神はこの母子を見捨てず、荒野の語りかけは愛と優しさに満ちていた。だが、この母子に凄まじい解釈を施し、ハガルとイシュマエルを排斥するパウロ。「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。…アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです」(ガラテヤ4:21~24)。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。…聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」(4:28,30~31)。ハガルとイシュマエルを新約聖書の中心問題に力ずくで引きずり出し、福音を語るパウロ。大胆にも、この母子を「律法の奴隷」の象徴としてしまう。これは無理なこじつけである。こじつけてまで、律法と福音の区別にすべてを賭ける。「律法」は、人間側の言動態度と照らし、神が私を愛するか、愛さないかを決めることである。その場合、私は絶えず自分の在り方を検証し、神が私に対しどんな態度をとるかに間断なく心を用い、奴隷的生き方に終始するだろう。「律法か、福音か」。このメッセージをあらゆる手段を尽くし訴える。その材料としてハガルとイシュマエルを担ぎ出して来たのだ。この母子の追放は、愛される価値を持つ、持たないに振り回される「律法主義」の追放であり、このメッセージに命を賭ける。一方「福音」は、神の愛を受け取る信仰だけを求めている。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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