2022年05月22日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「罪の法則」 ローマ7:14~25
14節では、神の律法は霊的なものであると述べられている。これについてワルケンホーストは「律法は単に文字なのではなく、神の霊という神の世界に属するものである」と記している。みことばは、私たちの心を照らす光。万人の個性に対応して罪を示し、悟りを与えて正しい悔い改めへと導く。ヘブル4:12では、だが霊的な神の律法と比較し、私は肉的であり、罪の下にあるとパウロは嘆く。キリスト者の悩みは、キリストを信じたのに罪を犯す悩みである。人は神の律法を喜んでいるのに、それを行う力がない。むしろ避けたい悪を行ってしまう。パウロはこのジレンマの中に罪の法則を見いだす。キリスト者は罪の支配から解放されたが、罪の法則の虜になった状態が信じた後も続いている。罪の法則はアダムから人に入り込み、サタンによることば巧みな誘惑、神のようになれるとの欲望に負けた。神の権威の下にあってこそ祝福と平安な世界を受け継ぐことができたのに、アダムは神からの自立を求め、居るべき領域を捨て、神の領域を侵した。興味深いのはサタンがサタンになった理由も居るべき領域を捨て、神の領域を侵したことにある。サタンは神の最高傑作であるアダムの中に罪を入り込ませることに成功した。もはや人の力ではどうにもならない罪の力、サタンの力が人を罪の虜にした。一方、神の似姿に創造され、特別な創造物である人は、神が愛することを愛し、神が憎むものを憎む存在として神の息を吹き込まれた。これにより私たちの中に二つ法則が存在するとパウロは言う。神の戒めを喜ぶ心(理性)の法則と神に激しく逆らう罪の法則である。罪の法則が勝って人を虜にすることで、善をしたくても出来ず、したくない悪を行っている現状が存在するとパウロは嘆く。私は本当に惨めな人間だ。誰が罪の法則に捕らえられた死のからだから私を救い出すのだろうか。パウロの嘆きは私の嘆きであり、実はこのような嘆きが信仰には必要だ。罪の法則と心の法則との闘いがあるところに罪を敵として歩む姿がある。神はエデンの園で、アダムに罪を送り込んだサタンと女の子孫との間に闘いがあると告げられた。また、その闘いに女の子孫が勝利し、サタンを滅ぼすことも宣言された。女の子孫とはキリストを指す。罪の法則の虜になり、どう足掻いても 絶望しかない人間のため、神は救いを用意してくださった。二つの法則の闘いは、私たちがイエスの復活と同じように栄光のからだを着るときまで続く。だが私たちは一人ではない。 私とともに歩み、弁護し、励ましてくださるお方がいつもともにいてくださる。このお方は、転んでばかりの私を見放すことはない。繰り返し、力強く手を差しのべる。「わたしに従いなさい」。私たちは「主よ来てください」と祈りつつ旅路を歩む。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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