2022年5月15日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「生きているけど、少し死んでいる」黙示録3:1~2
小説のワンシーンである。外から帰ってきた妻が夫に「トシエおばあちゃんとこへ行って来たわ」「幾つになるんだっけ?」「91ですって」「ぼけてた?」「うーん。ぼけてるのとは少し違うと思うの。ただね、話の中に死んだ人が平気で出てくるのよ、生きている人に混じって。この間のお正月のことを話しているらしいんだけど、ミチエおばさんとか、タカオさんとか生きている人と一緒にノブオおじさんとか、キヌちゃんとか、死んだ人も同じ部屋に集まってくつろいでいるみたいなのね」「怖いね」「怖いわよ…。でも、私わかったわ。「何が?」「うまく言えないけど、私たち生きているのと、死んでいるのと分けて考えるじゃない。でも、そうじゃないのかもしれないわ。きっかりとした境目があるんじゃなく、少しずつ死んで行くの。白から急に黒になるんじゃなくて、あいだに灰色があるのね。両方が混じっている世界にいて、少しずつ死の方へ寄っていくの。うつろな表情でうずくまっている人を見ると〝この人、生きているけど、少し死んでいる〟ってそう感じるわ」「なるほどねー」この会話のモチーフから黙示録が脳裏をかすめる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない」(黙示録3:1~2)。人間は両方混じった世界に存在する。勝利の凱旋行進か、それとも滅亡への道筋か?私たちが暗い気持ちになるときには理由がある。家庭内でいさかいがあるとか、お金がないとか、やるべき仕事ができないとか…でもこうしたことはただの心配事、頭痛のタネというべきだろう。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」(3:1)。〝両方混じった世界にいる〟とは、そういう問題が全部解決したにもかかわらず、なお人間の心のどこかに残っているもの、得体の知れない原因のはっきりしない何か。〝生きているけど死んでいる〟。漠たる不安のため自殺した芥川龍之介も、得体の知れない何かを感じながらその生命を絶った。一見、豊かで明るく見える令和の時代は〝真昼の暗闇〟とでも形容すべき時代である。今この国と人々の姿が放蕩息子のように「私はここで豚の番人になって餓えている」。この国と私たちの明日が大きく傾こうとしている。(そうだ!帰ろう。お父さんの前に身を投げ出し、父よ。天に対し、あなたに対し、私は罪を犯しました)と、赦しを乞おう。イエスは訴える。「わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙示録3;20)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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